Page 130 - 権五石会長の人生のエッセイ J01
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寛大なオーストラリア人




               私がオーストラリアのニューサウスウェールズ(UNSW)大学に博士号を取り
               に行った時だった。博士号を取るためには必ず英語が必要で···英語を話すために

               ランゲージスクールに通った。

               ところが学業を終えられないまま、途中で諦めて韓国に戻らねばならなかった。

               だから仕方なく… 学校の残った期間を妻に代わりに習わせたかった。  しかし、
               ビザが問題だった。

               私は学生ビザで行ったし... 子供と妻は同伴ビザで行った。

               ところで言語を学ぶには... そしてオーストラリアに残るには… 同伴ビザを韓国

               や外国に行って変えて、再びオーストラリアに入国せねばならないということ
               だった。そして学校側で運営するランゲージ過程も払い戻しができないという

               ことだった。

               理由は、韓国の留学院にある程度の手数料を支払ったためだという。
               それで

               まずチェスウッド(Chesewood)のイミグレーション(Imigration Department)に

               行ってビザを変えねばならないが、オーストラリアでは学生ビザで来た人と学
               生を同伴して来た人を現地でその資格を変える法律がないというのた。

               私は現地のキム○○というソウル教会の牧師に聞いてみた。

               彼もやはりそれは不可能だというのた。
               そして弁護士(韓国人)に会って相談したところ、彼もやはりそれは不可能だとい

               うのた。

               私は落胆して家に帰り、家に帰りながら神様に切に祈った。

               ところが、なぜかうまくいくだろうという感じがした。



               私はチェスウッドのイミグレーションに行った。

               そして下手な英語で話すよりは韓国語で
               「ここの代表来いって言え、代表来いって言え!」と大声で呼んだ。

               一言で言って、見苦しかった。

               オーストラリアのカムシーには韓国人がたくさん住んでいるが、チェスウッド、

               それもその日に限ってイミグレーションには韓国人がいなかった。
     QR
               どんなに騒いでいたかわからない。


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